かわいい子には旅をさせよ

2014年、夫が旅立ちました。透析をしています。

かわいい子には旅をさせよ

私には息子が一人おり、今は進学のため一人暮らしをしています。

そして私は、

義父母と別居→実家の近くに夫と生活→更に引越して、2年経ったところです。

 

因みに、義父母は義兄夫婦の家の近くに引越した為、

自宅は誰も住んでいません。

自宅は、義父が建てたものですが、

数年前に、生前贈与で夫に名義変更をしたため

今は、私が相続しています。

 

私と夫は、子供が生まれて、立派じゃなくても、3人が楽しく生活できる場所に

家を持ちたかった。

でも、義父が身の丈に合った家という買い物ができなかったので

ローンまで子世帯の負担になり、住む場所の選択肢がなくなってしまいました。

よくある話なのかもしれませんが、呆れた話です。

子供は、いつか自立して親元を離れるもの。

義父母はそう思ってなかったんでしょうね。

 

私と夫は、息子に対して、自分の決めた道に進めばいいと

自分達に遠慮せず、目標に突き抜けていけばいいと伝えています。

 

それは、夫が居なくなった今でも変わりません。

大切に思うからこそ、自由にとそう思います。

 



 

 

 

 

49日法要が過ぎて

 手続きに追われた日々も、49日法要の頃に少しひと段落していました。

仕事に復帰し、自分の気持ちも少し落ち着くのかと、

そう思っていたんですが、、、実際はそこから更に苦しくなりました。

 

いつも帰って来るはずの夫は、いないのだと思い知りました。

わかっていたつもりでも、更に現実を突きつけられるような。

頭の中に、自分が見た場面が次々に出て来て、

大丈夫と思っても、涙ばかり出る。

そんな日が続いていました。

唯一、息子からの電話の時だけは、普通でいられました。

 

1番辛いのは息子。

それに、私の身体のことで余計心配をかけているのだから

しっかりしなくてはと、思っていました。

 

でも皮肉なことに、49日法要が過ぎてから、

自分の身内も含めて、夫の思い出話をはじめ、経済的な事、と

無神経な話をするようになっていきました。

いつもなら流せるようなことも、流せなくなり

その気持ちはそのうち怒りとなって爆発して

完全に体調も崩してしまい、入院してしまいました。

 

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今の我が家の在り方

当時は、夫の話をすることが
私にとっても、息子にとっても辛かったし
そんな時間が長く続いた。


ようやく最近、息子と夫の話ができるようになった。


結婚当初から、家族でキャンプに行きたいと話していた。

元々、自転車が好きで、MTBを持って、仲間と山に出掛けて
みんなでキャンプしていた。
私もその仲間だった。


家族が出来てからは、少しづつキャンプ用品を集め始めた。
値段が高いものは、少しずつお金を貯めて買っていた。
頂いたものは、手入れをしてピカピカだ。
夫の選んだものは、全てが丁寧に手入れしてあった。

料理でいえば「下ごしらえ」スポーツなら「基本練習」
その部分に手を抜かない人だった。

そして、ずっと先の目標にむかって、長く努力ができる。

私も息子も、その姿をずっと見てきて
心から尊敬している。


持っていたMTBもいつも手入れがしてあった。

息子が自転車に乗れるようになった保育園の頃、
夫がパーツを組んで、息子の自転車を作ってくれた。

その自転車を車に乗せて、出掛けたし
キャンプも沢山出掛けて、思い出がたくさんある。


そんな話をしながら、息子は
「ずっと3人家族だし、お父さんを軸にして自分達は生きているよね」と言う。


今まで一緒だった家族が、今はみんな別の場所にいる。
でも、夫を軸に、3人が繋がっているから大丈夫だ。


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49日法要

この日まで、自分がどうして過ごしていたのか。
今はもうあまり思い出せない。
思い出さないように、何かがはたらくようだ。

多分、色々な手続きと、法要の準備をしていたと思う。

とにかく、段取りから、言葉のひとつからわからないのだ。
とりあえず、学習から始まったようなもので、
わからない事は、住職に何度も電話をして聞いた。

私の知識がどの程度か、、、
例えば三段盛りは、お寺のものは一般のものより
大きいと思っていた。
恥ずかしい話だが、そんな事も聞いた。
知ったかぶるよりいいと思い、何でも聞いた。

ほとんど自分で準備して、当日は帰省した息子と、
姉や兄に手伝ってもらった。

義兄夫婦は特に何かするわけではなかった。
弟のことなのに。
口出しばかりする人と、無関心な感じの人と
どちらがいいかはわからないが、
私には理解し難かった。

なんとか終わり、御斎の席では普通に過ごした。
まわりは「あっという間だったね」なんて話しているが
よそ様にとってはそんなものか、、と聞いていた。

慌しく1日が終わった。



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葬儀の記憶

お通夜で、住職の読経の後、御詠歌のお唱えがあった。
曹洞宗の御詠歌だそうだ。
声も歌も美しかった。

この御詠歌を聴いたとき、ざわざわしていた心が
安らかになっていくのを感じた。
そして、何故かわからないけれど、
この時、夫が安心して旅立っていけると思えた。

ただずっと、心配しないで、大丈夫だよと、祈っていた。
病気のことで、夫に心配も迷惑もかけっぱなしだったから
ずっとありがとう、ごめんねと。

息子と頑張って生きていくから、心配しないでと。
そればかり祈っていた。


常に列の先頭を歩く私、そして後ろに息子。
走る車の窓から、葬儀の案内板が見えた。

この風景を忘れることはないんだろうと思った。

新しく変えていくこと

家族3人でよく行った店が閉店、改装され始めていた。

年末に息子が帰省した時に行ったがやっていなくて
どうしたんだろうと思っていたが、そういうことだったわけで。

1年前なら、家族で行ったお店がなくなったりすると
なんだか寂しい気持ちになって、悲しくなったが
今は、そうして「新しくなっていくのだ」と思うようになった。

あの日から2年数ヶ月、立ち直ったわけではない。
でも、考え方を何通りか、用意できるようになった。
今回もそのひとつだろう。

お別れの時

警察から戻り、段取りは全て自分がすることとなった。
義父母や義兄夫婦は、全くノータッチだった。

大して眠りもせず、通夜の準備をした。
息子も疲れ切っていた。
父親の訃報を聞いて、どんな気持ちでいたのか、、、
申し訳ない気持ちでいっぱいだった。

午前中は打ち合わせ。

打ち合わせの前に、もう棺の中だった父親と対面して
「お父さんと2人にして。」と息子が言った。
廊下で待っていると、、息子の嗚咽が聞こえた。
ただ、それから、、葬儀が終わるまで、息子は一度も涙を見せなかった。

そして、「挨拶、、泣かないで言える自信がない」と言う私に、
息子は、「喪主なんだから、絶対にやり通せよ!!」 と強く言った。

その通りだと思った。
気持ちを引き締めた。


会場に入ると、私の礼服に「喪主」の印が付けられた。
そして、用意された香典の返礼に付いている挨拶のカードには、
喪主として、私の名前が書いてあった。
それを見て、「これは本当のことなんだ、、」と。

それから、私も葬儀が終わるまで、涙をこらえた。